7:26母親に起こされる。「仕事やないの?」
私は中年と呼んでも良い年齢に差し掛かった立派な大人で、アラームも7:50にかけており、たとえ寝坊してクビになっても私の責任である。起こさないでいいから、というと母は謝る。
音楽の仕事。久々の外出。北河内のチャペルへ。
天気は良いが霞んでいた。しばらく外出しない間に菜の花は満開。雪柳に桜も咲き始めていた。
ニューヨークにメアリー・マローン(1869-1938)というアイルランド移民の住み込みのメイド・料理人がいた。
彼女は健康そのもので、人柄も親切で、犯罪も犯さず、料理がとても上手で富豪の雇い主から重宝されていた。
だが、不思議なことに転職する先々で彼女の料理を食べた人が腸チフスに感染。知らない間に彼女の料理を食べて、腸チフスに22人感染して1人死んだ。
保健所がついに感染源が彼女であることを突き止め、嫌がる彼女を警官が捕まえ、2年間病院に隔離。世界初の腸チフス菌の健康保菌者の発見だった。
だが、彼女は病院にいても発病しなかったので、不当でアイルランド人に対する差別だと訴えを起こし、料理をしない事、居場所を届ける事を約束させて翌年退院。
ところが、行方不明になった。
5年後、産婦人科病院で腸チフスの患者が25人発生。2名死亡。そこには偽名で料理をしているメアリがいた。
彼女は捕まって68歳で死ぬまで、生涯病院に隔離され続けた。
死後メアリーの遺体が解剖され、腸チフス菌の巣が胆嚢から発見された。菌は毎日排出されていたのである。
トイレに行った後や、料理する前、手をしっかり洗わないといけなかったのである。
「無期懲役」のような生涯で、気の毒な生涯だったが、公衆衛生の歴史的な教訓となった。
「タイフォイド・メアリー」(Typhoid Mary)と言えば、健康保菌者を指すそうである。
5日前から母の泊まり客があったが、帰って行った。今回は新幹線で来られたので、自転車を貸そうとしたが空気が抜けて使えなかった。
昨日彼女は私の車に1日保険(500円)をかけて、別の泊まり客の友人と教会へドライブ。私は欠席。
私は再び目眩があったので客にお構いもできず、食事をご一緒する以外、この5日間ほとんど寝ていた。
午前中彼女を駅に送った後クリニックへ。
先ほど着いたと連絡があった。
サザエさんは変わったヘアスタイルをしている。顔の上に3つのカール、後にもカール。後はひっつめである。一体どういう経緯があるのだろうと思っていた。
1940年代第二次大戦スイング時代の流行。
サザエさんヘアにする方法。いっぱい巻かないといけないので結構ややこしい。
「ヴィクトリー・ロール」と書かれている。一般人もサザエさんだった。
驚くなかれドイツ女性だってサザエさん。
サザエさん初めて出版されたのは戦争が終わってすぐ。終戦当時の伯母の写真がサザエさんそっくりだった。鬼畜米英と叫ばれていても、乙女はせっせとハリウッド女優の真似をしていたものと思われる。
モガは昭和初期までの流行で、ボブやマーセルウエーブの事なので、サザエさんヘアは「モガヘアー」ではなく「ビクトリー・ロール」かと思う。
1775年、独立戦争の時、ボストンに住む銀細工師ポール・リビアは英国軍の動きを察知し、夜11時に早馬でレキシントンまで味方のジョン・ハンコックとサムエル・アダムスに知らせに行った。彼はチャールズ川を渡って対岸のチャールズ・タウンに渡ったそうだ。そこからだと現地まで自転車で1時間9分、車で35分の距離だ。このエピソードは伝説となり讃えられ米国の小学校では劇を上映し、歌まである。彼の走ったその道はポール・リビア・ロードとして知られている。
ところが、さっき1776年の地図を見つけた。ある事を発見。この当時ボストンとチャールズタウンまで、橋はまだ出来ていない。
彼の家❌からチャールズ・タウンへ行くに、
どないして渡ったのかめちゃ気になる。馬を泳がせたんやろか。
ポール・リビアは83才で死んだ時、16人の子供のうち5人が生きていた。食べていけないので鋳物屋になり、900もの教会の鐘を作り、今もキングス・チャペルで使われている。銀細工や版画の作品も数作り、ボストン美術館で見ることが出来る。器用な人やったんやなあ。
今もあまり変わらない。
ボストン・コモンのカエル池。
男女とも帽子かぶっている。
ワシントン・ストリートの賑わい。路面電車は地下鉄になった。
パブリック・ガーデン。今と一緒。
公立図書館もそのまま同じ。
サウス・ボストンのマリンパーク。
パーク・ストリート教会1809年設立。手前の墓地にポール・リビアのお墓がある。1829年に奴隷解放を最初に呼びかけた由緒のある教会。クラシック音楽の礼拝と流行りの音楽を使った若者礼拝とがあり、若者礼拝はバークリーの先生や学生が音楽を担当していた。この教会にはルーム・メート達と時々行っていて、一度正装して教会主催の舞踏会にも出席した。(生まれて最初で多分最後)
多くの貧しい国で、15歳以下の少女が結婚させられている。
文化的背景と貧困が主な原因である。
少女は学校に行けなくなり、親から離される。
身体も十分大人に成長していないので、出産はリスクを伴う。
女性の価値が低すぎるのが、一番の原因だ。男に依存しないと生きて行けない。
世界では、7億人以上の女性が18歳未満で結婚しており、そのうち3人にひとり以上(約2億5,000万人)が15歳未満で結婚している。
児童婚の程度は国によって大きく異なるが、児童婚を経験した女性と女の子の42%が南アジア、26%が東アジアと太平洋地域、17%がアフリカで暮らしている。
児童婚は全体的には減ってきてはいるが、その減少の速度は緩やか。特にアフリカでは急激な人口増加にその減少率が追い付かず、児童婚を経験する子どもの数は2050年までに現在の1億2,500万人から3億1,000万人に増加する見込み。
児童婚は、貧困家庭、そして都市部よりも地方で、特に多い傾向。(ユニセフの主要データより。)
日本の昔も、前田利家の妻は12歳で最初の子供を産んだと記録がある。
元治元年生まれの曽祖母も14歳で結婚させられたが、婚家を飛び出して大阪へ逃げた。再婚して祖母を産んだ時は36歳だった。
友達のインド人のお母さんは10歳で結婚したと言っていた。すぐ男の子を産んだが死んでしまい、彼女を産んだ時は20歳だった。18歳以下で出産した時の乳児死亡率は高いそうだ。