空の鳥

主に飼い猫+野鳥を撮って、紹介しています。

母方の祖父、六郎とその兄弟。

明治34年(1899年)金沢。

f:id:dollyosaka:20171226001645j:image後列左から父庸致、長男才一郎、次男浩二、前列左から母寿て(能登田鶴浜出身)、乗三、四郎、祖母、
真ん中の赤ん坊は、私の祖父六郎。1歳7ヶ月。

前列右のおばあちゃんは35歳で夫が死んだ時
「二夫にまみえず」
と髪を剃ってしまった。丸刈りで30年、子供たちを育てたが、大人になるまで生き残ったのは二人だけだった。なんと平均寿命が短かったんだろう。

父庸致は明治10年(1877)に西南戦争に行った。日記も残し針と糸で綴じた。彼は東京の士官学校へ行って軍人になろうと希望していたが親戚に反対されて故郷に戻り、金沢税務監督局に勤務。当時家族は柿木畠の武家屋敷に住んでいた。

曽祖父の先祖の江戸時代までの系図はH伯母が金沢の玉川図書館で見つけた。祖父六郎は代々金沢だと思っていたようだが、実は江戸時代までは禄高の少ない加賀藩領砺波の山回りの足軽で、山岳警備隊だったようだ。江戸時代先祖の結婚相手はほとんど農家や商家の娘だった。*1きっと食べて行くための知恵である。野田山に墓があるが、六郎家族のお墓は裾も裾の方。

 

明治39年頃、東京。

f:id:dollyosaka:20171226001839j:image後列左より、浩二、四郎、前列左より才一郎、祖父六郎(11歳)、乗三、赤ん坊の八郎。

父が明治38年鉱山ブームで失敗して一家離散。日露戦争の頃一年間母の里である和倉温泉に近い田鶴に。その間妹が病死。翌年3歳の八郎を連れて上京。8歳で牛込の小学校に入学した祖父は、方言をからかわれて殴る蹴るのイジメを受けたが、兄が四人もいたせいか負けておらず、下駄で応戦した。

 

明治44年、大阪。

f:id:dollyosaka:20171226002812j:image後列より四郎、乗三、前列六郎、浩二、才一郎。

小5の時に父庸致が死去。三井物産に勤めていた次兄を頼って汽車で大阪に来たものの、次兄は遊里にハマってお金を費やし会社を辞めて東京へ行ってしまって行方不明に。

極貧の中11歳の六郎は新聞売り、印刷工場、丁稚など苦しい生活を余儀なくする。飢えによる脚気や睡眠不足、職場の人間関係と戦いながら商売の基礎を学んだ。f:id:dollyosaka:20171231002413j:image

弟がジフテリアにかかり、なけなしの金を持って道修町まで血清を買いに行って、注射で命を取り留める。その看病で世話が出来なかった祖母は死に、長男は砲兵工廠をやめて警察学校に通って巡査に。次男は行方不明中に台湾巡査に応募したが、戸籍を調べに来たので連絡が取れ、バイトしながら歩いて大阪に戻って来て職を転々として看守になった。

大正4年母は肝臓ガンと診断される。

「お前は子供のうちでも一番苦労をさせた事を気の毒に思う。しかし、どうか決して悪い事をしてくれるな。立派な人間になって成功してほしい。正しい人間として生きぬいてほしい。」

と看病する15歳の六郎に繰り返し言い残し、49歳で逝去した。当時まだ5歳の弟八郎は親戚の紹介で金沢の呉服商に養子に。弟を汽車で見送る時六郎は号泣したと言う。

 

大正後期、大阪

f:id:dollyosaka:20171226001112j:image後列左から六郎、八郎、前列浩二、才一郎。

  1. 才一郎は一ツ橋大学を出たにもかかわらず、放蕩な生活だっため砲兵工廠辞めてから就職した巡査を辞めて、妻の実家がやっている家庭金物の店をやっていた。六郎がずさんだったその店をきちんと立て直す手伝いをし、建築金物の見習いになり、数年後才一郎が六郎の開業を支援する。昭和11年55歳で死去。
  2. 次男浩二は大企業に勤めていたのに辞め、放浪。興信所、堺監獄の看守になったが、その後も職を転々として病死。六郎は彼を反面教師とし「終始一貫」がいかに重要か、後年常に言っていた。浩二は妻ハツの婿養子になった。六郎はそこの妹山上栄が好きになったので、人を介して申し込み結婚した。*2早くに死去。
  3. 三男乗三は養子に行き、東京で歯医者になった。改名して譲二になり、軍医になって戦地で兵隊の虫歯の治療をした。f:id:dollyosaka:20171225224202j:image六郎と。60代で死去。
  4. 四男四郎も母の従兄の家に養子に行った。旧制中学をトップで出たのに、なぜか堺の郵便局に勤めていた。50代で亡くなった。
  5. 五男けい五郎は夭折。
  6. 六郎の妹の公子も夭折。
  7. 八郎は養子先で折檻を受けながらも進学し、大阪大学で応用化学の学者になったが戦争に行って感染病にかかり早世。

六郎は大正10年建築金物の商店開業、店は成功し、戦後株式会社となって今もある。大正11年9月*3に結婚式を挙げた二人は60年以上連れ添い、六人の子をなし、幸せな家庭を60年以上築いた。六郎は、遊里で遊ばず、信用を第一にし、家族や親族の面倒をみ、税金をキチンと納め、*4闇取引には応じず、校長先生と業界であだ名がつけられた。大正時代の奈良の干ばつの時は、ため池のポンプを大阪中の問屋から集めて儲けなしで提供して喜ばれた。関東大震災の時も困ってはるからといって、そうした。そのため、第二次大戦の大阪大空襲で同業者のうち六郎の店だけ焼け残った時、人々が六郎が良い人なので天恩が厚いんだと、人々は言った。六郎は89歳まで生きた。

 

 

※漢字や情報の間違いがあれば、コメントで教えて下さい。

*1:金澤玉川図書館資料より

*2:本人談

*3:戸籍謄本では翌年長女誕生の24日前

*4:三井達雄著「大阪の群像」より