空の鳥

主に飼い猫+野鳥を撮って、紹介しています。

カッコいい幕末のサムライ

幕末のサムライは写真が結構残されている。

どの人も生きるか死ぬかの世界に生きて来たので、眼力がスゴく、2枚目である。オカメひょっとこ顔では斬られてしまうのであろう。

f:id:dollyosaka:20170309194519j:image中津藩・九代藩主、奥平昌遭。

「殿、後ろの毛がくしゃくしゃです。」

 

f:id:dollyosaka:20170309194909j:image勝海舟郷ひろみにちょっと似ていると言うと、年がバレるか?

 

f:id:dollyosaka:20170309195434j:image土方歳三

 

f:id:dollyosaka:20170309195254j:image福沢諭吉。彼の伝記「福翁伝」は抱腹絶倒。

f:id:dollyosaka:20170309195540j:image桂小五郎

 

f:id:dollyosaka:20170309195749j:image伊藤博文、千円札になる前。また年がバレる。

 

f:id:dollyosaka:20170309200022j:image小松帯刀篤姫に出ていた。

 

 f:id:dollyosaka:20170309200333j:image沖田総司。禿げてるんやなくて多分月代。ポニーテールが流行っていた。

 

 f:id:dollyosaka:20170309200558j:image近藤勇新撰組隊長。

 

f:id:dollyosaka:20170309200845j:image増田孝、1863年。

 

f:id:dollyosaka:20170309201122j:image坂本龍馬。彼の親戚は北海道に。

 

渋沢平九郎。22歳で自害。

なんて惜しい。長生きして映画に出て欲しかった。

 

女性を苦しめた纏足

唐の時代の終わり頃からほんの100年ほど前まで中国女性を苦しめたのは纏足の習慣である。9センチの足は三寸金蓮と呼ばれ、美人の条件だった。良い縁談の条件で、纏足でなければ舅姑や夫から蔑まれ、惨めな人生を送ることになったので、母親は泣く子を押さえつけて布で巻き、4本の足を丸めて、先を尖らせた。骨は変形し発熱したと言う。

暴力を振るわれても走れない、というのも逃亡の防止になり、婚家に有利だった。

習慣が完全に無くなったのは戦後なので、今も田舎の村に、纏足の女性が残っている。

f:id:dollyosaka:20170308231037j:imageこのおばあちゃんたちの夫のインタビューを見たことがあるが、嫁に来た時の足の可愛らしさを絶賛していた。

ボストンにいた時ルームメートに中国人学生がいた。彼女の祖母は将軍の第二夫人で、台湾に逃げた時置いていかれ辛酸を舐めたそうだ。纏足は西洋のハイヒールと同じで、歩くとなよなよとセクシーだったんだそうだ。

それにしても、幼児虐待もいいところだ。

f:id:dollyosaka:20170308233614j:imagef:id:dollyosaka:20170308233842j:imagef:id:dollyosaka:20170308233844j:image

セーラムのピーボディ博物館で本物の靴を見たが、小さくて美しく刺繍が施されていた。

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f:id:dollyosaka:20170308232547j:imageこの子は枕を売っている中華民国の女の子。纏足は貧しい少女にも施された。

 f:id:dollyosaka:20170308233053j:image1890年の姉妹。

これも1890年。

パールバックの「母の肖像」には19世紀の、虐げられる中国女性の実話エピソードが出てくる。

母の肖像 (新潮文庫)

母の肖像 (新潮文庫)

 

 また彼女の「大地」には纏足をするかしないかで、扱いがどう変わるかも詳細に書かれている。

 

 

 私の七五三の着物の写真をアメリカ人に見せたことがある。その人(60代)は「纏足されなくてよかったね。」と言った。

それ、いつの話や。私はジャパニーズや。いっぺんはったおそか💢

 

ミシン

1851年にアイザック・シンガーが特許を取ったミシンは、それまで手縫いだった家庭の主婦に大革命を起こした。

よほど高価だったと見え、記念写真まで撮っている。

 

f:id:dollyosaka:20170308103926j:image1855年。発売してまだ5年だ。小さい!

 

f:id:dollyosaka:20170308104034j:image流行のヘアスタイルからして1850年中頃か。撮影中動けないから表情恐いな。

 

f:id:dollyosaka:20170308104101j:imageハープの横でミシンを踏む人。宮殿にでも行けそうなドレス着てミシンを踏んでいる。ろうそく立ても見える。電気はまだ発明されてないのだ。

 

f:id:dollyosaka:20170308104523j:imageそれにしても、小さいな。

 

f:id:dollyosaka:20170308104527j:image珍しい手回し式。カメラ目線で手元が危ない!

 

f:id:dollyosaka:20170308104541j:imageちょっと恐い。横に誰か立っている。

 

f:id:dollyosaka:20170308105346j:image洋服屋の縫い子たち。ミシンが来るまで全部手縫いだったのだ。

 ペリーが2度目に来た時、ミシンを持って来た。天璋院が日本で初めてミシンを使った女性だそうだ。

アイザックシンガーは5人の女性との間に24人子供がいて、富豪だったが死後遺産でもめたそうだ。無理もなかろう。参考※

ヴィクトリア時代のボンネット

1850年1840年ごろから写真が普及し始めた。
最初の頃はダゲレオタイプと呼ばれる写真で、今のお金で一枚10万円ぐらいしたので、そう頻繁には撮られなかった。
ところで、1839年世界で初めて撮影された女性のポートレートはこれである。
花をちりばめたボンネットをかぶっている。

 

f:id:dollyosaka:20170307153930j:imageフィラデルフィア1840年

 

f:id:dollyosaka:20170307153950j:imageメアリーキャンベルさん後ろ姿の写真に10万円なんて。

f:id:dollyosaka:20170307154239j:image南北戦争の銃後を守る産業援助会。1863年アイオワ州。左から、ミセス Lesslie、ミス メアリー シェルトン、秘書、m. w. ポーター博士、ニューカム夫人、副会長 Whittenmyer夫人、ミス m. McKibben、サンダース夫人。勇ましい顔やなあ。

 

f:id:dollyosaka:20170307154914j:imageボンネットのヴィクトリア女王と5人の子供。悲しそうだが、喪服だろうか。アルバート公逝去の時か?

 

 f:id:dollyosaka:20170307155124j:image南北戦争時代の母と子。

 

 f:id:dollyosaka:20170307171652j:image1850年中頃。

 

f:id:dollyosaka:20170307160430j:image ダゲレオタイプ写真の令嬢。1850年前後。

 

f:id:dollyosaka:20170307160749j:image1845-50年に撮られた女性。

 

f:id:dollyosaka:20170307163315j:imageこのバスケットはナンタケットバスケットに似ている。

 

f:id:dollyosaka:20170307164545j:imageこれでもか、というほどギュウギュウに花を詰め込んだボンネット。

 

f:id:dollyosaka:20170307170223j:image結婚式の写真かな。ハンサムなカップル。

 

f:id:dollyosaka:20170307170304j:imageママのドレスとボンネット、豪華。お金持ちそうや。

パリのファッション誌より。

1863年f:id:dollyosaka:20170307172245j:image

1864年f:id:dollyosaka:20170307172300j:image

1840-1850流行のヘアスタイル

1840-50年代に大流行したヘアスタイルがある。「Padded Wing Hairstyle 」真ん中に翼のように分けて耳を覆い隠しパッド入れたものらしい。

f:id:dollyosaka:20170306174751j:imagef:id:dollyosaka:20170306174816j:imagef:id:dollyosaka:20170306174837j:imagef:id:dollyosaka:20170306174853j:imagef:id:dollyosaka:20170306174857j:imagef:id:dollyosaka:20170306174919j:image

どうも、流行らせたのはヴィクトリア女王か?f:id:dollyosaka:20170307152347j:image

それともこの結婚前のSisi(エリザベート)16歳か。f:id:dollyosaka:20170306231523j:image

なぜ誰もスマイルしていないかというと、日中でも10〜20分間ジッとしていないといけなかったからだそうだ。

ローラの聖書

教会の礼拝に出席。ピアノの奏楽をする。

くたびれ、午睡。起きたら6時。

ローラインガルスの死後、彼女の聖書にメモが挟まれていた。  

彼女はミズーリ州マンスフィールドのメソジスト・エピスコパル教会に通っていて、婦人援助グループや日曜学校の二つを受け持っていた。子供の頃から聖句を暗唱し、賛美歌を歌い、聖書以外の信仰の書物は読んではいけないと考えていたようだ。

ローラのメモには「特に役立つ箇所」とある。

貧しくともパフスリーブの流行には敏感だった若き日のローラ。彼女は寝る前、新聞紙で前髪をカールしピンで留めて寝たそうだ。

オルデン牧師

大草原の小さな家」シリーズには実在の人物オルデン牧師が登場する。f:id:dollyosaka:20170305001216j:image

ローラインガルスも家族もオルデン牧師が大好きで尊敬していた。

ローラの残した文学とテレビシリーズによって彼の名は死んでも残った。

ところが、後年の資料により、彼にはちょっと知られていない部分があった事が分かっている。

オルデン牧師は1836年に清教徒の9代目の子孫としてバーモント州に生まれ、ダートマス大学卒業後、メイン州のバンゴー神学校へ進み、結婚。最初の妻は若くして亡くなり、アンナと1863年に再婚。希望して、ニューオリンズのストレート大学(黒人のための大学)で教える事を受け入れられたが、到着して夫婦とも病気になった。バーモント州へ戻って1864-67年まで牧師になった。その後、家庭伝道協会から教会を創設するためにミネソタ州ワセカで1867-70年まで牧師をし、妻子と暮らしていた。1874-75年ウォールナットグローブで教会を建設。インガルス夫妻に洗礼を授けた。

その後彼はミネソタ州サウスダコタ州の入植地スリーピーアイ、ニュー アルム、バーンストン、サラトガ、マーシャルを旅しながら巡回牧師をし、新しい街の教会建設を励ましてきた。

1879年シルバーレイクの偶然測量技師の家でインガルス家族と出会い、デ・スメットで最初の礼拝をささげた。

このエピソードはローラ・インガルス著「シルバーレイクの岸辺で」に書かれている。

シルバー・レイクの岸辺で―インガルス一家の物語〈4〉 (福音館文庫 物語)

新しい町デ・スメットの教会の牧師に就任するはずだったが、先にブラウン牧師が来ていたので身を引いて去った。

その後は今のノースダコタ州に移って、1889年までフォート・ベルトルト先住民保留地でインデアンの代理人をしていた。

※参考What Happened to Those People Laura Ingalls Wilder Wrote About? 著者: Daniel D. Petersonより。

 

ところがここからが問題である。

 

1885年、妻子とではなく16歳の学生の下宿人とサウスダコタ州スピンク郡に住んでいた事が記録に残っている。この学生はエルマー・クラークという名前である。

ローラの父さんも母さんもその事を知っていたが、「それでもブラウン牧師よりオルデン牧師が好きだ」と言っていたので、何か深い事情があるのだろう。

さらに妻がミネソタにいるのにダコタにいると嘘の報告をしてお金を誤魔化し、仲介人をしていたフォート ベルトルト先住民保留地の先住民に嘘をついたと怒らせ、命を狙われた事が、1878年8月15日のNYタイムズの当時の記事に残っている。

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彼は1890年東部故郷ヴァーモント州に戻り、聖職に復帰して前妻と離婚しないまま別の女性、子連れ未亡人のキャリー・アダムスと再々婚、77歳で死んだ。

今の法律では重婚かもしれないが、19世紀末の法律では最初の妻との別居は離婚と認められて合法だった。

 

ところで捨てられた気の毒な家族はどうなったのか。

長男ジョージ(1866-1944)はカールトン大学を卒業、ハーバード大学院で学んで大学教授に、

Archives: Alden

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次男フレデリック(1873-1955)もミシガン大学の化学と薬学で学士を取り、研究所勤務の後イラストレーターになって名を残した。

F. W. Alden (1873-1955)

アンナは93歳まで生き、子供が立派になったのを見届けて亡くなった。ミシガン州に埋葬されている。f:id:dollyosaka:20170305000614j:image

あの時代にハーバード大学院に行かせるなんて、お金はあったのだ。

オルデン牧師はきっと仕送りをしていたんだな。時々帰っていたかもしれない。

オルデン牧師がインディアンに命を狙われたり、16歳の学生を下宿させていた頃、子供達はまだ小学生だった。妻アンナはきっと夫を信じて、子供には余計な情報を耳に入れさせず父を尊敬させ、立派に育てたんだろう。

テレビやラジオが無かったから出来たのだ。

立派な女性だな。

#大草原の小さな家

このブログを書いた後、新しい情報を知りました 。

http://dollyosaka.hatenablog.com/entry/2018/05/30/オルデン牧師2