愛知県へ。友人と数年ぶりに会う。14歳になる。富田林生まれの可愛い猫に一瞬だけ会う。私を見ると急いで逃げてしまった。
有名なはせべの鰻重。美味しい卵の味のお煎餅もついてくるのだ。
浜名湖はキラキラしていたが、猛烈に暑かった。
宿に着く。外猫のちゃうちゃんとウチ猫のぬーたくんが出迎えてくれた。さすが宿の猫だ。
近所のほっともっとで弁当を買う。後で少し胸焼けがした。
愛知県へ。友人と数年ぶりに会う。14歳になる。富田林生まれの可愛い猫に一瞬だけ会う。私を見ると急いで逃げてしまった。
有名なはせべの鰻重。美味しい卵の味のお煎餅もついてくるのだ。
浜名湖はキラキラしていたが、猛烈に暑かった。
宿に着く。外猫のちゃうちゃんとウチ猫のぬーたくんが出迎えてくれた。さすが宿の猫だ。
近所のほっともっとで弁当を買う。後で少し胸焼けがした。
ワーケーションのサブスクの宿ADDressの拠点で、童謡唱歌を歌う会をします。
9月18日(水)沼津市原町「来ないか茶屋」
9月26日(木)石巻市ゲストハウスみらい。
いずれも朝10時からです。
お近くにお住まいの方、ご参加下さい。
1977年に北海道の宗谷岬から鹿児島県の佐多岬まで、乗り物を使わず、歩いて旅行したイギリス人がいた。
アラン・ブース(1946-1992)はブースは生まれてすぐ養子に出され、下町で育ち高校で演劇を学んだ。学生時代にレイトンユースシアターを設立し、公演には公的支援を受けた。バーミンガム大学で演劇を専攻し、能スタイルで『ハムレット』や侍の世界を舞台にした『フェードル』を演出。1970年に日本に移住し、能を学びつつ、執筆活動や映画評論に従事した。1992年に46歳で東京で生涯を終える。
東京に7年暮らして30歳の時、ブースは田舎に関心を持つようになり、なるべく都会を通らず、田舎の旅館に泊まり、日本を歩いて縦断した。その日記は、出会った人々や犬や猫の描写から、石川啄木の説明、勧進帳のストーリー、広島の原爆の被害の描写など、地理や歴史の勉強にもなり、ウィットとユーモアにとんで非常に面白い。何度車に乗せてあげようと言われても断り、意地でも歩き通した彼は強い意志の人だと思う。
3200キロを128日で歩いた。1日平均25キロ位か。平坦な道ばかりではなく、山奥など選んで歩いている。宿泊を断られたり、「外人外人!!」と子供たちに追いかけられたり差別にも合っている。その一方安宿の家族たちに親切にされたり、お巡りさん家族とカレーを食べたり、親切にもしてもらっている。
この本で1番面白かったのは、1977年の高度成長期の日本の様子だ。この頃日本人はやたらと工場や高速道路を作って公害を撒き散らしていた。そして今と違って、ゴミは分別していなかったので、作者はゴミの中を歩いていたようだ。どぶも臭かったと書いてある。そして、コンプライアンスなどなかったあの時代、普通の映画館で上映している日本映画のきわどい描写や喫茶店に置いてある雑誌など目を覆うような漫画だったのも驚愕しているが、いずれも私も記憶しているあの時代の汚れた部分だ。1977年をそのままイギリス人の作家の目を通して、描いてくれているようで、ロードムービー映画のようで面白かった。
超お勧めである。
Instagramで、歩いて日本を縦断している外国人の配信者がいて、この本を読んで日本を歩いてみたいと思ったと語っていたので、英語版を電子書籍で買ってがんばって読んだが、偶然にも日本語版を見つけたので古書で買う。ほんとに面白い本で何度もゲラゲラ笑った。
最寄りの駅からは23分で難波まで着き、近くにコンビニもスーパーもある。うちのどこが田舎なのか。
やっぱり田舎かぁ。
昨日、運転免許試験場の和式トイレのことをブログに書いたが、AIに絵をかかせようと思ったら、これが阿呆すぎた。
プロンプトも貼っておこう。
「昭和の和式トイレ」
「ずらっと8個並ぶ、和式トイレ」
「日本の昔の公衆トイレ。床に埋め込まれた東洋式。」 昔の日本というと、やはりこうなる。美しい模様だなぁ。トプカビ宮殿のハーレムのトイレみたいだ。
最後のは、英語でやってみてやっと和式らしきものが出てくる。でも敷居がないのでもしかしたらAIは中国製なのではないかと思う。昔の中国の公衆トイレは敷居がなかったと読んだ事がある。
「A toilet that is installed in the floor and requires bending over to use. Public toilets in the Showa era in Japan. It is a private room and there are 8 in a row.」
夢に出て来そうだ。
猛暑38度。5年ぶりに免許の更新で光明池へ。
この5年コロナ禍があったので、ネット予約制になっていた。写真の持参も要らない。
さすが令和や、ハイテクや、と感心していたら、3台機械がおいていて、それを係員が早口で手助けして捌いていく。迷路のような視力検査や写真撮影場所を歩かされる。前と一緒だ。
支払いも、収入印紙を貼る必要がなくなったが、現金を渡すのは昔と同じだ。
講習される先生の口調も、内容も、免許証の渡し方も昭和と同じ。
もっと驚いたのが、お手洗い。
3階女子トイレ8個のうち7個が和式だった。高校を思い出した。
さてさて
家に帰ったら母が私に、ジャケットが裏返しになってるという。
あわてて新しい免許証を取り出して見たら、バッチリ裏が映っていた。
会う人、会う人が私と距離を取りたがっている様子だったのはこういう訳だったのだ。
明治44年、菊栄は43歳で高知博愛園の初代園母として奉職し、その後37年間心身に傷を負った子どもたちの成長を使命として博愛園で尽力した。
入所した35人の子どもたちの中に、結核を患う14歳の平七がいた。菊栄は平七の世話に心を尽くし、特別な食事療法や心のケアを行った結果、9カ月後に平七は完治。菊栄の愛情が彼を癒やしたことは、彼女の使命感を証明するものであった。
5歳の音吉は、戦死した父と厳しい家庭環境で育ち、栄養失調で入園。強情だった音吉は、菊栄の愛情と工夫で徐々に素直になり、学校でも褒められるように。音吉は成長後、職人となり母を迎え、孝行息子として大阪で成功を収めた。
ある時安次という子どもの世話を始めた。安次は母親が前科17犯のスリで、刑務所で産まれた男児だった。安次は菊栄に怯え、なかなか心を開かなかったが、ある晩、赤い着物を着た菊栄を見て安心し、初めてぐっすり眠るようになった。これにより、安次は菊栄に親しみを持ち、次第に彼女にまとわりつくようになった。安次は立派な社会人に成長した。菊栄の愛情が安次の人生を支えた。
ある時菊栄は、盗癖のある13歳の五助を育てるのに苦労した。五助は園内外で金品を盗み、近所からの苦情が絶えなかった。菊栄は悩んでいたが、ある日五助がたんすを漁っているのを見つけた。驚いた五助に対し、菊栄は優しく接し、本が欲しい理由を聞いた。菊栄は叱ることなくお金を差し出し、五助は心を改める決意をした。その後、五助は盗癖をやめ、模範生として成長し、商店で信頼される店員となった。
10歳のサエは、継母に虐待され、逃げ込んだ山で何年も過ごし、無惨な姿で園に連れてこられた。菊栄は彼女を温かく受け入れ、髪を整え、愛情を注ぎました。5年後、サエは人間らしさを取り戻し、素直で愛される少女へ成長した。
またある時菊栄は、鏡川の橋下で保護された棄児・橋本愛子を育て上げ、高知の女学校に入学させた。愛子は神戸の松陰女学校でメイドをし、聖公会の修道院に入りたいと願うようになるが、結核にかかり、菊栄の元に戻る。菊栄は愛子を懸命に看護するが、愛子は21歳で他界。菊栄は深い悲しみに包まれ、愛子の遺骨は 菊栄と共に眠ることとなった。
菊英の墓跡石には十字架と「 おばあちゃんは 孤児橋本愛子をいだいて ここに眠る」と刻まれている。
高知市井口町丹中山・坂本家墓所
武井優著『龍馬の姪・岡上菊栄の生涯』鳥影社出版より。