空の鳥

主に飼い猫+野鳥を撮って、紹介しています。

スペイン風邪と赤毛のアン

赤毛のアンの作者、LMモンゴメリは1918年スペイン風邪に感染した。

その時のエピソードを1919年2月に文通相手マクミランに書いている。

アニーおばさんは10月の第一週に帰郷の途につきましたが、私はトロントまで同行しました。その頃トロントではスペイン風邪が猛威をふるっていて、毎日たくさんの死者が出ていました。あなたもかかったそうですね。あなたは、また、その風邪のことを『悪魔的な力』と呼んでいますね。ゾクっとするような言い回しです。確かにスペイン風は悪魔的でした。カナダを大竜巻のように荒らして回り、今では最悪の状態は峠を越したとは言え、まだまだ衰えを見せてはいません。1918年の最後の3ヶ月で、オンタリオ州だけとっても7000人の人が亡くなりました。カナダの他の州における死亡者数はつかんでいませんが、トロントとモントリオールでは土木工事用の蒸気シャベルでお墓が掘られました。大きな溝が掘られ、遺体は何列にもなれるって埋められたのです。その多くは棺桶にも入っていません。間に合わなかったからです。でも、私がトロントに行ったときには、まだそういう段階では立ち至ってはおらず、やっとことの重大さに驚きを始め、予防薬を買うために何百人もの人々が薬局に押し寄せていると言う状態でした。

アニーおばさんを送った後、私は帰宅しました。その日の夕方にくしゃみが出始め、その翌日にインフルエンザで寝込んでしまったのです。重態に陥ってしまいそれがあまりにひどいので、ある夜などはお医者様も九分九厘望みを捨てたほどでした。心臓がほとんど役立たずの状態だったのです。でも、肺炎を併発しませんでしたので、10日後ベッドから這い出したところ、卒倒してしまい、改めてベッドに運んでもらわなければなりませんでした。生まれてこの方、あの病気ほど私を徹底的に衰弱させ、神経を冒し、意気消沈させたものはありません。3週間が経ってようやく、多少ともいつもの健康に戻ったような気がしましたが、それでも今もって心臓と神経に悪影響が残っている感じがしています。

やっと回復し始めたと言う時に、アニーおばさんからの電報を受け取りました。一人息子のジョージーがインフルエンザから肺炎を併発して亡くなったという知らせでした。私はすっかりうろたえてしまいました。それというのも、ジョージの死が身に応えたばかりか、あの気の毒な女たちが1人は年老いても1人はとてもひ弱な上に、6人の幼い子供たちを抱えた女がどれほど絶望的な苦境に陥っていることが、痛いほどよくわかったからです。我が身の衰弱も顧みず、私は直ちにプリンスエドワード島に向かいました。いとこのフリードもモントリオールから駆けつけ、私たちは2人して病人の世話をしました(一家全員インフルエンザにかかっていたのです)。そのうちの1人は救うことができませんでした。4歳の可愛いジョージーは死んでしまったのです。その子以外は回復しました。私たちはその大きな家を消毒し、あらゆる雑用に精を出しました。その後、11月末にこちらに戻り、10月末には出来上がってなければならなかった新作「虹の谷のアン」を書き上げる仕事を12月に費やしました。書き上げたのは簡単です。今度の8月に出版されるでしょう。アンの子供たちとその遊び友達をめぐるいくつかの出来事を使っています。(モンゴメリ書簡集Iより抜粋)

この手紙の後には、1月にモントリオールのいとこのフリードがスペイン風邪で亡くなったという電報を受け取り、自分の命の半分が引き裂かれる思いをした、と綴っている。

コロナのニュースをきいて、この書簡集を思い出した。

 

スペイン風邪は、コロナよりずっと恐ろしいなあ。