私は生まれてから11歳まで
都島区大東町の公団に住んでいた。都会の中だがすぐ横は淀川の堤防で、ワンドと呼ばれる池がたくさんあった。ザリガニやフナの宝庫で、楽しい遊び場だった。赤川の鉄橋の近くだったので、城東貨物線のSLの汽笛を聞きながら育った。
当時の地図である。今は団地は高層マンションに建て替えられている。
城北小学校に5年間通っていたので図工の時間には
城北公園で写生をした事もある。ここには千人塚という慰霊碑がある。1945年 6月7日に大規模な
空爆があり、淀川河川敷に逃げた近隣住民千数百人が機銃掃射の犠牲になり、荼毘に付されたそうだ。痛ましくて腹が立つ。
写真は上から、明治時代、大正時代、昭和5年の地図。わんどは大正時代から見られる。
最後は昭和22年(1947年)の航空写真。多くの犠牲者を出した淀川河川敷を始め私の通学路付近にいくつもの1トン爆弾投下の生々しい跡が見られ、ショックである。奇跡的に
城北小学校の建物と
赤川鉄橋は焼け残っている。