「ヨーロッパ最悪の宗主」レオポルド2世(1835-1909)
コンゴの植民地で先住民の残酷な労働で人口3000万人から900万人まで減らしたベルギー国王。
その犠牲の上に財を成し「ヨーロッパ最悪の宗主」と呼ばれた。
葬儀では棺に唾を吐きかける者まであったという。
ベルギーの公園にある銅像は今でも放火されたり塗料かけられたりされる。王には一人の息子と三人の娘がいた。息子は9歳の時池に落ちて風邪をひいて死んだ。三人の娘もそれぞれが大変な時代を波瀾万丈に生きた。
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長女ルイーズ・ド・ベルジック(1858-1924)
ハンガリーで最も富裕なオーストリア=ハンガリーの大領主のフィリップと結婚したが、2子儲けたものの喧嘩ばかりでうまく行かず、ルイーズは夫婦喧嘩の腹いせに社交界での不倫スキャンダルで有名になった。
ウイーンのプラーター公園で知り合ったクロアチア人将校マタチッチ伯爵と駆け落ちし、世間を騒がせた。皇帝の命令で夫と伯爵は剣で決闘し、夫は手に少し負傷した。
ゲザ・マタチッチ伯爵
ルイーズは、ヨーロッパを流浪し散財して借金をこしらえた。夫は返済を妻の父に頼んだが断られ、フランツ・ヨセフ皇帝が払った。
ルイーズは皇帝の命令で6年もコスウィグにある民間の精神科施設に収監され、伯爵はサインを偽装した罪で4年服役。釈放された伯爵はメディアを利用してルイーズを解放した。
不幸な事件が起こる。長男が女に結婚を迫られ断ったので無理心中を図られ、硫酸をかけられたのち死亡した。
1906年晴れて夫と離婚できるもルイーズは贅沢したツケで再び債権者から逃げてヨーロッパあちこち移る。秘密に住んでいたパリのホテルで伯爵が死んだ後行き場を失ったルイーズは、ベルギー領事館の助けでドイツのナッソーホテルにメイドと移り、1924年66歳で死去。
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次女ステファニー(1864年 - 1945年) オーストリア皇太子ルドルフ妃
ハプスブルク家のルドルフ皇太子に嫁いだステファニーは、一女エルジをもうけたがベルギー嫌いの姑エリーザベトにいびられる。
夫に性病をうつされて不妊に。
さらに追い打ちをかけるように24歳の時、夫が女と心中(マイヤーリンク事件)。
ウイーンの宮殿で居場所を失う。
ところがハンガリー貴族と知り合って再婚。
身分違いとあって実家や嫁ぎ先から除外されたものの、オロスヴァール城で幸せに暮らしていた。
1945年に赤軍が攻めてきてパンノンハルマの大修道院に匿われ、4ヶ月後そこで死去。
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三女クレマンティーヌ(1872年 - 1955年) ナポレオン・ヴィクトル・ボナパルト夫人
姉二人は次々若くして結婚して嫁ぎ先の宮殿に行ってしまったが、クレマンティーヌはなかなか結婚出来なかった。恋人ができても亡くなったり、母に嫌な政略結婚を押し付けられて拒否したり。
28歳で母が亡くなり、フランスのナポレオン公と恋人になったが政治的理由で父に結婚を反対された。
辛抱強く待って、37歳の時父国王レオポルド二世が亡くなり、次の国王が認めてくれたので、ついに38歳で愛する人と結婚出来たのである。住んでいた城
三姉妹のうち彼女だけが子孫を残し、今も末裔がいる。出典Pinterest より
ジャン=クリストフ・ナポレオン(1986-)