ホテルをチェックアウトして宇部へ。有名な片柳弘史神父にお目にかかるため、あらかじめ連絡をして行く。
教会ではミサを行われていて、後ろの椅子に座って終わるのを待つ。
パイプオルガンによる演奏と聖歌隊の歌が始まったが、どの曲も知らなかった。
順番がさっぱりわからず、貰った印刷物をひっくり返して、どこを読んでいるのか探した。
司祭に副司祭ふたりに子供の奉仕者が二人、白い衣装を着て一列に並んでしずしず登場。
歌と朗読が続く。主の祈りと使徒信条以外、わからないがお話はこういった内容だった。
人間は生まれながら小さな愛の火を持って生まれてきます。困っている人や助けが必要な人のために使うことによって大きく輝かせることができます。
「ともし火をともして升の下に置く者はいない」とイエスはいいます。「自分さえよければいい。人のことまで構っていられない」という自分中心の考え方こそ、心の奥深くにともされた愛の火を隠してしまう「升」なのです。
祭壇で聖餐式をしていたが、コロナ禍のためか神父が十字を切る祝福だけだった。
教会の人が来て、洗礼を受けているか尋ねられた。受けていますがカトリックでじゃありません、と言うと「そうですか、それでは」と残念そうに言われた後、誰かに相談しに行かれて戻って来て「良いですよ」と言われて私を神父さんの前に連れて行った。神父さんは私の前で十字を切って祝福した。
一番びっくりしたのは、報告の内容だった。
まずは法王様の報告である。今アフリカを訪問中であるとかで、その国の情勢を説明。行かれた事があるのだという。
次に殉教者の名前が行事カレンダーにある事だ。何せカトリックはキリシタン迫害と殉教という、日本史に欠かせない事実があるからだなぁ。山口県でも明治時代に、津和野でたくさんの人が迫害されて殺されている。
信徒の名前は洗礼名から呼ばれていた。知ってはいたが、これも驚く。
カトリックの教えで私がついていけないと感じる点はマリア様と聖人が祈ってくれている、という教えだ。みんな人間だった人ですでに亡くなってる。でも代々続く教えと文化的背景から、真剣に信じておられるんだろうと思う。
ここの教会は幼稚園もあって会堂も庭も広い。教会の花や鳥写真をいつもTwitterにあげておられるが、雀の写真のカレンダーを記念に下さった。
著書にサインをしてくださる。